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もうひとつの牛の学舎

テーマ:学舎のアルバム

「こんにちはーっちょっとお邪魔します」カエル
「はい…?」

後ろで大きな小麦の乾燥機がブンブン唸っている。

「こちら…昔、●●●中学校だったところですよね?」カエル
「…そうだけど…?」

仕事中に見かけない奴がいきなり来ておかしなことを言い出すな…という感じが、この学舎の主の表情にありありと浮かんでいた。
かみ合わないトゲトゲした雰囲気が漂う。。。

熊牛第二中学校 清水町

花のある学舎

この地域の開拓百年史誌によると、かつてこの地域に中学校がふたつあったとの記録がある。
一帯は、昔から酪農地帯。しかし、それは昔の話で牛乳卸売価格が芳しくない昨今は、この辺りに関わらず、酪農の痕跡(サイロや家畜舎)を残しながら畑作専業農家が多い。
学校時代からの扉かなぁもともと乳牛の飼育は、冬期間の収入のない期間の収入源として飼われたのが多かったのだそうだ。
そのため畑作と酪農兼業の農家が多かったが、経営規模が拡大していくにしたがって家族経営での両立は難しくなったようです。
通気口が学校らしい現在は、ほとんどの牛乳は、農協あるいは関連乳業の一括買い上げですが、その昔は搾りたての牛乳を一升瓶に詰めて戸別に配達なんてこともあったらしく、牛乳が、この凍てつく大地に生きる人々にとっていかに一番手軽な栄養源だったかを思わせます。
見渡すかぎりに畑が広がる風景の中、ところどころに朽ちかかった家畜舎が見られる。
昔は、もっと。。。中学校がふたつあったくらいだから家は多かったんだろうね。

外壁

正面熊牛第二中学校は、現在、牛の学び舎として現役の『第一中学校』と同じ年の創立で昭和22年と比較的新しい。創立時は熊牛小学校に併置された中学校でしたが昭和25年に分離独立
始まりの同じ両校は、同じ年に校史を閉じましたが、第一中で804名。この第二中でも615名。実に24年間で1,419名の卒業生を送り出す。
いかにこの地区が繁栄していたかが伺い知れます。
第二中は、当時の各種剣道大会で常勝、昭和41年の十勝放送陸上大会で優勝者を出す等スポーツ面での活躍が顕著だったようです。

昔のがっこうらしいトイレ 中は倉庫 

「お忙しいところ申し訳ありません。昔の学舎の跡を見たくて回っているんです。ご迷惑かと存じますが、見せていただきたいのですが…。あの…これは、ほんの気持ちなんですけど…」カエル

持参した手土産(和菓子)をそっと出す。すると

「なんだ!それなら早く行ってくれよォ!中、見たいのかい?」

手の平を返したように変わる表情に少し唖然。。。
こういうところが土地の人のいいところでもあると思う。
ともかく、貨物列車の扉みたいな吊戸をガーッと開けて中に入れてくれました。

校門「電気付かないから、だいぶ薄暗いけど好きに見てっていいよ」
「あの、住宅の横にあったのは学校の校門だったのですか?」カエル
「そうさ!良くわかったね」
「酪農の方は、もうお止めになったんですか?」カエル
「うん、もうだいぶなるかなぁ…」

ここは、牛の学舎としても閉校になってしまったんだ。。。

「学校らしいものは、なんも残ってないと思うけどね。まぁ好きに撮ってっていいよ」

内部天井

ひとりになって、薄暗い教室らしきところを歩いていく。
そういわれてみると天井の格子が学校の天井らしいけど、教室の仕切りにしていた壁は取り払われていて、床もコンクリートを打設して鉄パイプが規則的に並んでいた。
すっかりモノトーンな感じの教室…らしきところ。
それでも、意地というくらいに学校である痕跡を探している。。。

用具入れの札「あ…これって…」カエル

見つけた。ここが学校である動かぬ証拠。
学び舎としての香りが残るところ。。。

空とひとつになる学舎

テーマ:学舎のアルバム
気が付くと校門 

その学舎は、あまりにも横幅が長いので、かなり離れないと写真に収めることが出来ません。その時、当然フレームの半分以上は空になるのです。
それは、空がこの学舎の一部であることにほかなりません。

礼文内小学校 豊頃町

体育館何度もこの道を通ったのに校舎を見ることが無かった。
たまたま地図を確認するためにわき道へ入ったところ真横に一風変わった校門が目に入った。
池田から向かっていくと左回りの緩やかなカーブの途中、右の市街地へ分かれるわき道は工事中で左側は道が掘りこんだ風になっているので、ちょっとした高台に見える。
車高の高い車なら目に入っただろうけれど、軽自動車からは良く見えない。
見える見えないというよりも、いかに自分が無計画に走っているかということに他なりません。

木立の先に学び舎

天文観測台この学舎がその使命を終えたのは、さほど前ではなく平成3年のことだそうです。
ほとんどの教室が横一列に並んでいるので正面玄関を挟んだ両側がものすごく長い。
その長さゆえ、廊下もはるか向こう側ということで体力有り余る子供たちは、その廊下を走り抜けたい衝動にかられていたようです。
おかげで生活目標には、いつも「廊下を走らない」というのが真っ先に出てきたらしい。
昭和60年に開設された天体観測所で、当時の校長先生が150mmの天体望遠鏡を寄贈。

正面玄関閉校時の児童数は41名。
昭和35年には児童数220名を誇る大きな学校でしたが、その後の高度経済成長に伴う過疎化減少により平成2年時点で生徒数40名を下回る状況となり、学校存続的に厳しい数字ではありませんでしたが、教育的配慮により他所の学校と共に新設校へ統合ということになりました。
遠巻きに伺うと、とても閉校になった場所とも思えない。
校舎から少し離れたところに建立された『萬感ここに在り』と刻まれた閉校の碑は、まさに万感の想いを込めて学舎の姿をその身に映し出していました。

横幅の長い校舎

明治39年創立 平成3年3月閉校 
ここまでの卒業生数1,626名

碑に映るのは思い出の日の姿なのか

空とひとつというよりも 空を従えた学舎。。。
空は果てしなく、宇宙もまた果てしないのと同じように子ども達の夢も果てしないのです。

授業が嫌になりそうな学舎

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思い出を語り合う机

ここから海はとても近い
このあたりは酪農が盛んなところで、かなり大きな酪農家が多い。
だから草原も多い。
山から広がった裾野の大地は海もすぐ近くだから草原の大きさも尋常ではないような気がした。
そこに学んだ生徒達の純情さには粋な心もあるように思える。

『歴舟中学校』 大樹町

新建材的な校門

現在、学舎はバイオ研究所の施設として使用されているため部外者は全く入ることができません。
閉校となって11年あまり。
このあたりの海岸線には終戦末期に水際戦用にたくさんのトーチカが突貫工事で作られました。
使われることのないまま終戦を迎え、戦後60年余り。多くは海岸線の浸食のため露わな姿を砂浜に累々と横たえる奇妙な光景が見ることができます。

そこを探していると目に入る学舎。それが歴舟中学校。
近くの歴舟川は砂金掘りなんかでも有名なところですが、一番の金は学舎の中にいるのです。

スクールバス待ち所?

でも、ここでも人口の減少・少子化は容赦なく学校の存続に影を落とします。
果たして、人は本当に減ってしまったのか
人が来なくなってしまったのか。。。

時計は現役です在校生徒10名前後であることから数度にわたる統合を視野に入れた町教育委員会との語り合いにより『合併反対』の結論に達しました。
しかしながら、最後の卒業生を送り出し、在校生3名となることから、やむなく大樹中学校と統合になりました。

古い体育館は、広い面積を作るため外に補強の柱があります少ない生徒数でも、そこはそれ少数精鋭というもので行き届いた教育は、平成8年の道東壁新聞コンクール最優秀賞や英語暗誦大会でも優秀賞・最優秀賞を獲得していたそうです。

『わからない人は置いていきますよ』
そんな塊の教育よりも個人が見える教育が良いに決まっている。
でもそれは、緊縮財政・合理化の波の上では仕方のないことでもあります。

親でさえ我が子の通う学校のことは無関心という世の中
学舎の存続で戦う親がいた土地は、人の心が草原のように雄大です。

木造モルタルの教室

昭和27年創立 平成10年3月閉校

教室から見えた風景

教室の南側に広がる風景
毎日、この景色を眺めての授業は、案外辛かったんじゃないかと思う。
一面、柵すらない大草原。

あの木のところまで裸足で走っていきたい

大きな空の下の学舎

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空が大きな景色

当に空と大地以外何もないという感じの景色。視界の八割が空なんてところはいくら北海道でもそうそうあるもんじゃないと思う。
もちろん
海沿いは別としてね。

白糸小(中)学校 足寄町

こじんまりとした校門

このあたりは戦時中に本別町に置かれた軍馬補充部十勝支部があり、この見渡す限りの広大な土地の大半も軍馬育成牧場だったそうです。
現在も大規模草地育成牧場として馬に変わり乳牛が育成されています。

通称「ミルクロード」と呼ばれるこの沿線。敗戦後、政府が外地引揚者や復員軍人の帰農を計画しました。
入植先は、広大な北海道が選ばれ当時の西足寄村も国や道からの照会に受け入れを決議・回答。軍馬育成牧場用地は高度約300~500mの丘陵地帯で畜産には最適で、農耕もほぼ可能ということで入植者は続々と増加しました。

道と電線が人の跡

入植当初は、地名も移住者もいない牧場跡地で、旧軍馬補充部を寝床にしての生活は、かなり心細いものであったそうです。
そうして塩幌地域の白糸を中心に軍人帰農者開拓団あるいは山形県庄内開拓団により「白糸」「泉」「静原」が構成されました。白糸の名は軍馬補充部管理時代より丘陵の中段からの湧出する水による滝があり、「白糸の滝」と命名されたことから名づけられたということです。

中学校相次ぐ団体の入植により、いち早く学校設立の準備が計られましたが、予想に反して児童の数が少なく、やむなく近郊の利別小への通学になったとのことです。
その後、児童数も増加して昭和26年、旧軍馬補充部当時の厩舎(病馬厩舎ともされている)を町が払い下げて改造し、開校。29年に新校舎が落成。

ところが時代の風潮として、離農も増加していったようです。
旧家の跡さえもほとんど残らない緑の勝利した大地。
小学校帰農軍人たちは再び敗北したのでしょうか。。。
残った牧場は、自然との闘いで勝ち残ったエリートともいえます。
現在、校舎は既に解体されて、かつてのグラウンド思しき場所は、パークゴルフ場として整備されています。
果たしてどれほどパークゴルフに高じる人がいるのか、伸び放題の芝をようやく刈った跡が真新しかった。
開拓記念碑とお社と、そしてここに学校があったことを記す揺るぎなき証拠として校門が一対、広大な風景のたった二割の大地にしっかりと佇んでいます。
右が小学校の 左が中学校の校門。

芝刈りしたばかりの校庭

昭和26年創立 昭和41年利別小学校・中学校へ統合のため閉校
閉校当時小学生37名 中学生31名

敷地内のお社

もうすぐこの大地にまたミルク色の季節がやってくる。

銀河沿いの学舎

テーマ:学舎のアルバム

もうすぐ冬ですねー
などと気の早いことを言ってしまいますが、
冬になったら、除雪が大変だとか 灯油代が心配だとか 凍結路面が怖い などということが真っ先に頭を巡ってしまいがちです。

冬は冬なりの楽しみ
スノーシュー履いて普段はクマの入れ食い(どっちが)状態なところへ行けるし
凍結湖面を渡ってタウシュベツ橋梁へ行ける~などと考えています。
来る冬は、なにか楽しみを見つけておきましょう。

そんな予告編として白銀の世界の学舎です。(ホントは真冬の画像しかない)

『様舞小学校』 池田町

様舞駅(現在は撤去されました)

旧ちほく高原鉄道ふるさと銀河線。その沿線の小さな駅『さままい』
単式ホーム1面1線を有する駅で無人駅でした。
アイヌ語の「シャモ・オマ・イ」(和人がいるところ)が地名の由来だそうです。
『和人』とは道外からきた日本人のことです。
様舞は鳥取県からの入植者が多いところとのことです。

乗客はきわめて少なく、年間の平均乗降客数がわずか5人程度だったとされる。このため2000年には廃止対象とされたが、最終的には撤回されて2006年の廃線まで存続しました。

1950年(昭和25年) 日本国有鉄道の仮乗降場(局設定)として開設。
1959年(昭和34年)5月1日 駅に昇格。旅客のみ取扱い。
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道に継承。
1989年(平成元年)6月4日 北海道ちほく高原鉄道に転換。
2006年(平成18年)4月21日 ふるさと銀河線廃線により廃止。

校門と校舎

飾りが特徴的な校門この駅から少し離れた場所の道より少し奥に入ったところに『池田町立様舞小学校』があります。
見た目は木造モルタル風のキレイな建物ですが、建て替えられてからそんなに経っていないようにも見える。玄関口に『自然学校』風の表記があるのでアウトドアスクールなどに利用されているようでした。
沿線沿いは耕作地が広がり、農村風景といった景色が望めますが離農による人口の流動が激しかったのか、閉校時の児童は、たったの2人だったそうです。
今、必死の少子化対策や就農者対策といった政策は、果たして万を辞しているのか、腰を上げるのが遅かったのか微妙に思えてきます。

閉校記念碑『讃仰』10人以下で現役存続の学校もまだまだありますが、もう減らしようがないくらい学校は少なくなりました。
ねこんの住む街も町制施行から数えると五分の一程度になってしまったようです。

学舎の窓から聞こえた懐かしい列車の音ももう聞こえることはない。
このあたりは、レールも枕木もすっかり姿を消して、軌道跡であったことを記す砂利の細道を残すばかり。。。

真っ白な校庭

明治44年創立 昭和55年3月閉校

卒業記念絵画

二ノ宮金次郎?卒業生439人。
学び舎の窓から見える卒業制作の絵画を再び描いた当人が見ることができる機会はどれほどのものなのだろうか。

想いでは やがて面影だけを残して

思いの中だけでいつまでも いつまでも

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プロフィール

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ねこん

こんにちは 『ねこん』です。
『時の忘れ形見』を探してあちこちドライブしています。どうぞよろしく。

上士幌は心の埋蔵遺産がたくさんあります。
「幻の橋」や地球創生を思わせる温泉など…
ここでは、町のシンボルでもある『タウシュベツ橋梁』だけではなく、上士幌限定のロマンやちょっとしたことを探していきます。 

忘れ形見紀行 ルイン・ドロップ