1  |  2  |  3  |  4  |  5    次>    最後>>

秋のまなびや

テーマ:学舎のアルバム
歴史ある校門


もうすぐ3年
ここから巣立った子どもたちも
次のステージへと向かうころでしょうか。

校庭はあの日から
時が止まってしまったように静かですが
地域の集まりの場には変わりないようです。

校庭

少しずつ変わっていく 少しずつ
未来はいつも明るく希望に満ちたものと思えるような
そんな世の中にしたいものです。

秋の高い空を見上げる学び舎。
『最後』のあとは
いつも『始まり』

ずーっと続いてきた。

空と染まる学舎

テーマ:学舎のアルバム

同じ十勝管内でも海近くまで来ると大地は、なだらかで見通しが良い。
豊頃町もそんな町で、市街地近くに有名なハルニレの木がある。
そこから海の方へ、一級河川十勝川の堤防沿いに走っていく。堤防は大きくて、海へ向かう道を間違えようも無いほどだ。
良いはずの視界に威圧的な印象を与える。
豊頃町は十勝川の最下流域に位置し、視界をさえぎるような堤防が築かれたのも、それだけ川の氾濫が多かったということなのだろう。

長節神社 左奥が学校跡 

長節小学校(豊頃町)

豊頃町長節地区は、明治30年(1897)に千葉県の津田貞次郎、大須賀寅之助らが入植。
しかし一帯は、泥炭地と湿地のため農業に適さず、当時は造林作業等で生計を立てていたそうです。
明治44年(1911)に国営直轄事業として明渠排水工事、河川の切り替え、築堤整備に着手、昭和52年(1977)に一連の工事により、泥炭と湿地の長節地区は酪農経営を中心とした農業となりました。
今でも景色の多くは牧草地であり、畑作には向いていないらしく70%強が牧草専用地。

この辺りの空は大きい。
上士幌町の空も大きいけれど、ここは95%が空で、大地がこんなに薄っぺらいものなのかと思ってしまいそうになるほどです。

校門だけが残る学校

かつての「村立」の文字が削り取られている長節小(中)学校の創立は明治36年。閉校までの卒業生は327人にのぼる。
国営直轄事業工事着手前の創設なので、移住者は湿地でも「開拓者魂」で逞しく生き抜いた土地です。
この長節小学校には、昭和33年から同44年までは中学校が併設されていました。
実に豊頃駅から32㎞もの遠隔地で、十勝管内でも数少ない僻地等級5級(昭和47年には4級となる)とされていました。
他の十勝管内の5級校は、足寄の駅から28.5㎞の旭丘小(中)学校(足寄町)と38.2キロメートルの富士見小学校(足寄町)、新得の駅から45㎞離れた富村牛小(中)学校(新得町)があり、いずれも閉校となっています。

とはいえ、現在の風景から距離的な問題があったとしても不便極まりないとは思えない土地です。
酪農中心の営農は戸別の規模により、機械化の波に乗り切れなかったこと、そして低迷する乳価と出荷制限。厳しい自然の洗礼に耐えながら、なおも苦難の続く中で人生の進路を替えざろうえない家も多かったのだろうか。

学び舎は、既に解体されました。
残っているのは校門と『拓道』の記念碑。他にも何らかの記念(卒業記念か?)として文字を刻まれた石がいくつか…

夕焼けに染まる拓道の碑

長節小学校 昭和54年3月に76年の校史を閉じ、大津小へ統合。

残された校門の間には、しばらくの間、馬車の車輪と消えかかった詩の刻まれた看板があったという。
いくら人の生き方が変り、ワールドワイドになっていっても人生の大半は、この大地の上なのです。

友だちを待つ学舎

テーマ:学舎のアルバム

北海道 本別町。義経伝説のある町
市街地から外れて国道274号線の分岐に入り、白糠町を目指す。
道を右手に街の景色を仰ぎながら峠道を進むといつの間にか隣町の浦幌町に入っていた。

ふと気がつくと右に大きな建物が見えてきた。

川上近隣センター
周辺の農家の倉庫も負けないくらい大きいけれど、地上と比べても8:2くらいの広い空の下で白っぽい建物がやけに目立った。

川上小中学校 浦幌町

グラウンドからの景色

白っぽい建物は、どうやら体育館。やっぱり学校のようだ。
校門やバックネットなどの学校らしいものは見当たらないけれど、閉校記念碑が置かれている。

浦幌の本町からだと遠いこの地区は、この先の釧勝国道を経て釧路管内に入る峠道沿いながら起伏が緩やかなため、流通のトラックや一般車も頻繁に走っている。
グラウンドと思しき平地の向こう側に高速道路の延長工事をしているらしき様子も見える。
それだけ人里の香りがありながら寂しさをぬぐえないのは、学舎跡に子どもたちの軌跡がないことと、グラウンドに瓦礫が散らばって閑散としていたかもしれない。

開校70周年と閉校の記念碑

明治41年に創立された学び舎は、昭和53年、開校70周年記念式典が挙行されたそうです。
その7年後に閉校とは夢にも思われなかったでしょうが、車窓から時折見える廃屋などが離農による過疎や少子化をものがたる。

校舎全景 左側は近隣センター

手形の入ったモニュメント77年の校史で卒業生は640名にのぼったそうです。
併設の中学校は昭和26年から42年6月まで。
何も無いように見えた学び舎の裏、自治会に植えられた花壇の中に手形が残るモニュメントを見つけました。
閉校時の児童は13名。そのモニュメントの存在になにかホッとするものを感じた。
淘汰されないものが、ちゃんとあったんだという気持ち。

今年は熱い夏でした。それでもグングン高くなっていく空に季節は巡ることを忘れないんだと改めて知らされる。

体育館の中

明治41年創立 昭和61年3月閉校。

校庭の片隅。雑草に埋め尽くされた場所に数本の低木が点在している。
その中にポツンとしゃがんでいるものが見えた。

寂しげな像

人というか鳥というか不思議な生き物の形。
たぶんいつかの卒業記念制作によるものなのでしょう。
前の道をジッと見つめて誰かが来るのを待っているかのようでした。

高原の学舎

テーマ:学舎のアルバム

三股小(中)学校 上士幌町

とにかく広い平地

上士幌町十勝三股は、戦前・戦後を経た木材需要景気でわき、昭和14年に国鉄士幌線が三股まで延長され、製材所も当地で稼働していたことから町として活気づいていたそうです。
昭和39年の一番賑わっていた頃には221戸、1162人が住み、出稼ぎも含めると2000人以上がここで暮らしていた。

三股小中学校校章この地で学び舎に通う子ども達も昭和29年頃には100人を越えていたという。
後の木材需要の低迷や国道273号線開通に伴い製材所が市街地へ移転したり、昭和48年には十勝三股からの原木の出荷が終了。これにより急激に人口は減っていく…。
特に駅周辺の人口流出が進んだため、昭和53年国鉄ダイヤ改正により士幌線糠平駅─十勝三股駅間は、列車の運転を休止(路線廃止ではなく、あくまでも「代替」ということで路線・駅舎共に残される)し、上士幌タクシーが受託してマイクロバスによる代行輸送になった。

現在近辺には、十勝三股バス停留所の他に車両機関庫のような建物、そして「三股山荘」が営業しているほかには、商業施設はない。

三股駅跡

『十勝三股駅』
北海道河東郡上士幌町にあった、日本国有鉄道士幌線終着駅。北海道内の駅としては最高地点(海抜約661m)に位置し、士幌線の終着駅であった。

1939年(昭和14年)士幌線の延伸により同線の終着駅となる。一般駅。 
1978年(昭和53年)車扱貨物取扱い廃止。
          糠平─十勝三股駅間がバス代行となる。
1984年(昭和59年)荷物取扱い廃止。
1987年(昭和62年)全線廃止。

鉄路廃止後、代替バスも沿線の極端な過疎化によって年々減便を繰り返し、最終的には1往復となりました。これも2003年9月をもって廃止され、翌月より「帯広─糠平─旭川」間の都市間バスが十勝三股停留所を新設して、幌加温泉入口・糠平方面との乗降も可能として代替としている。


昭和19年創立 昭和51年閉校

上士幌町史補追版(平成4年発刊)より 

三股小(中)学校は、校史32年をもって糠平小学校へ統合

平らな三股 

閉校時の児童:小学生10名  中学生1名

学舎も駅舎も多くの人が暮らした家々も製材工場もすでに無く、山の中とは思えないほどの平らな景色が広がって、毎年初夏頃にルピナスの群生が見られる。この平らな景色は、多くの人が暮らすために整地した名残なのだと思っていましたが、ここは盆地なのだそうです。
学舎は国道より少し離れた丘陵地にあったらしく、そこまで行ってみようとしたけれど道を横切る小川に阻まれて断念。。。

道を横切る小川

十勝三股は、北海道で最も山奥にある盆地なのだそうです。ここから東部に散在している古い火砕流堆積物を供給したカルデラ)ではないかという説に基づく北海道大学の調査で近年、十勝三股盆地を給源とする火砕流堆積物が同定されたことから十勝三股はカルデラに認定された。
従来それぞれの地域で異なる名称で呼ばれていた4つの火砕流(無加・芽登凝灰岩、屈足火砕流、黒雲母石英安山岩質軽石流)がすべて十勝三股盆地から噴出した同一の火砕流であることが分かった。この噴出により一帯が陥没して誕生したのが、この地とされている。
静かな風景からは、思いがけない激しい過去を持つ十勝三股なのです。

誰かの落し物

※カルデラとは、火山の活動によってできた大きな凹地のこと。「釜」「鍋」という意味のスペイン語に由来し、カルデラが初めて研究されたカナリア諸島での現地名による。
本来は地形的な凹みを指す言葉であったが、侵食および埋没により元の地形を留めていない場合などにも、過去にカルデラであったと認められるものはカルデラと呼ぶ。(ウィキより)

もうひとつの牛の学舎

テーマ:学舎のアルバム

「こんにちはーっちょっとお邪魔します」カエル
「はい…?」

後ろで大きな小麦の乾燥機がブンブン唸っている。

「こちら…昔、●●●中学校だったところですよね?」カエル
「…そうだけど…?」

仕事中に見かけない奴がいきなり来ておかしなことを言い出すな…という感じが、この学舎の主の表情にありありと浮かんでいた。
かみ合わないトゲトゲした雰囲気が漂う。。。

熊牛第二中学校 清水町

花のある学舎

この地域の開拓百年史誌によると、かつてこの地域に中学校がふたつあったとの記録がある。
一帯は、昔から酪農地帯。しかし、それは昔の話で牛乳卸売価格が芳しくない昨今は、この辺りに関わらず、酪農の痕跡(サイロや家畜舎)を残しながら畑作専業農家が多い。
学校時代からの扉かなぁもともと乳牛の飼育は、冬期間の収入のない期間の収入源として飼われたのが多かったのだそうだ。
そのため畑作と酪農兼業の農家が多かったが、経営規模が拡大していくにしたがって家族経営での両立は難しくなったようです。
通気口が学校らしい現在は、ほとんどの牛乳は、農協あるいは関連乳業の一括買い上げですが、その昔は搾りたての牛乳を一升瓶に詰めて戸別に配達なんてこともあったらしく、牛乳が、この凍てつく大地に生きる人々にとっていかに一番手軽な栄養源だったかを思わせます。
見渡すかぎりに畑が広がる風景の中、ところどころに朽ちかかった家畜舎が見られる。
昔は、もっと。。。中学校がふたつあったくらいだから家は多かったんだろうね。

外壁

正面熊牛第二中学校は、現在、牛の学び舎として現役の『第一中学校』と同じ年の創立で昭和22年と比較的新しい。創立時は熊牛小学校に併置された中学校でしたが昭和25年に分離独立
始まりの同じ両校は、同じ年に校史を閉じましたが、第一中で804名。この第二中でも615名。実に24年間で1,419名の卒業生を送り出す。
いかにこの地区が繁栄していたかが伺い知れます。
第二中は、当時の各種剣道大会で常勝、昭和41年の十勝放送陸上大会で優勝者を出す等スポーツ面での活躍が顕著だったようです。

昔のがっこうらしいトイレ 中は倉庫 

「お忙しいところ申し訳ありません。昔の学舎の跡を見たくて回っているんです。ご迷惑かと存じますが、見せていただきたいのですが…。あの…これは、ほんの気持ちなんですけど…」カエル

持参した手土産(和菓子)をそっと出す。すると

「なんだ!それなら早く行ってくれよォ!中、見たいのかい?」

手の平を返したように変わる表情に少し唖然。。。
こういうところが土地の人のいいところでもあると思う。
ともかく、貨物列車の扉みたいな吊戸をガーッと開けて中に入れてくれました。

校門「電気付かないから、だいぶ薄暗いけど好きに見てっていいよ」
「あの、住宅の横にあったのは学校の校門だったのですか?」カエル
「そうさ!良くわかったね」
「酪農の方は、もうお止めになったんですか?」カエル
「うん、もうだいぶなるかなぁ…」

ここは、牛の学舎としても閉校になってしまったんだ。。。

「学校らしいものは、なんも残ってないと思うけどね。まぁ好きに撮ってっていいよ」

内部天井

ひとりになって、薄暗い教室らしきところを歩いていく。
そういわれてみると天井の格子が学校の天井らしいけど、教室の仕切りにしていた壁は取り払われていて、床もコンクリートを打設して鉄パイプが規則的に並んでいた。
すっかりモノトーンな感じの教室…らしきところ。
それでも、意地というくらいに学校である痕跡を探している。。。

用具入れの札「あ…これって…」カエル

見つけた。ここが学校である動かぬ証拠。
学び舎としての香りが残るところ。。。

1  |  2  |  3  |  4  |  5    次>    最後>>

プロフィール

ねこん

こんにちは 『ねこん』です。
『時の忘れ形見』を探してあちこちドライブしています。どうぞよろしく。

上士幌は心の埋蔵遺産がたくさんあります。
「幻の橋」や地球創生を思わせる温泉など…
ここでは、町のシンボルでもある『タウシュベツ橋梁』だけではなく、上士幌町のちょっとしたことを見つめていきます。 

忘れ形見紀行 ルイン・ドロップ

このブログの読者