空飛ぶ電車
人には言わないけど意味もなく
そして違うと分かっていながら思ってしまうこと。。。

貨車だ
』白の穴だらけバージョンもあったなぁ。

電柱のあたりで余ったみたいにグルグル巻きにしているのとか。。。
ねこんだけか。。。路肩にわざわざ車止めて撮ってるし。

関連業者の方、ご回答ください。

ちなみにPCで「電話線の途中にある黒い電車みたいなもの」と検索してみたら
何も出ませんでした。。。
当たり前か
ホントの戯言でした
トピアリーな家
トピアリー (topiary) とは、樹木や低木を刈り込んで作成される造形物。動物をかたどったり、立体的な幾何学模様を造る。針金などの枠型に草花やアイビーなどのつる植物などを這わせて作成されたオブジェを含める場合もある。
『鹿美小学校』 鹿追町

地図の上を探すとこの辺りに『鹿美』という地名はありません。
『美蔓』という地域が芽室町・清水町・鹿追町に重なることから各町に分割併合されたちいきということで『鹿追町美蔓』の名が短縮されたと考えるのが妥当でしょう。
近くに同じ名を持つ中学校(解体・現存無し)もありましたし『美蔓』だけでは紛らわしかったのかな?
赤レンガ製の校門が校名もそのままに残っている。
すぐ脇に町と町教育委員会によって立てられた名跡地表示板があります。
あちらこちらの町の歴史にかかわるところに立っていて、ここが№92ということですが指標自体も古くなってきていて、その目録というものも閲覧できる形では探すことができないようです。

校舎の方は、体育館を残して解体されていて現在は地域館が新たに増築されたため当時の面影はあまりありません。
文化活動に力を注いだ学校らしく、昭和36年:中央書道会入選。昭和41年:全国作文コンクール入賞、昭和42・43年:十勝書初め展団体入賞などの実績があったそうです。
48年の校史を経て33人の児童は鹿追小学校へ統合。
前年・後年ともに同町で統廃合が進んだことから、離農者の激増期に飲まれた学校なのでしょう。
当時を偲ぶものは数少ないのですが、グラウンドを囲むようにすぐ近くにあった教員住宅が石炭小屋らしきものと共に残っていました。
ちょっと他所では見ない感じのモダンな住宅。校長先生の家かな?
ツタが絡み付いてすっかり汚れた感じになってしまいました。

大正4年創立 昭和49年3月閉校

汚らしいといっても夏場はこうですからね。
トピアリーみたいな住宅。
どこまで増えるものだろうかと、度々見にいったりします。
踏まれるスズメ
スズメを見かけることが少なくなったですね。。。
そう思っていたら何かの記事で、やはりスズメが減ってきているとのこと。
自然の摂理か 地球温暖化 環境破壊 生息域の現象。。。
いろいろあるようだけど本当の原因は分からないのだそうです。

昔、夏場にストーブの煙突の中で何かがガサガサ動くのを何度か聞いたことがありました。
本能というか季節的に巣を作ろうとしていたんですね。
煙突の中がチュンチュンと響く。
鏡みたいにキラキラ輝く鉄板の裏でスズメの夫婦が一生懸命何かの藁で巣を作っている様子を想像していました。
所詮、人の巣だから落ち着かないらしくて、そこでヒナを育てることはなかったようですけど。
当たり前のようにいつも見ていたのにいつしか見ることの少なくなったスズメ。
どこへいってしまったんだろう。。。
とある施設で見かけたスズメ。畳の上で何かをついばんでいる。
よく見ると畳に刺繍されているようです。
ほかの畳にはないので、ここだけタバコか何かの焼け焦げができたのでこうして繕ったのでしょう。
物が壊れたり、汚れの落としようがないとすぐ捨ててしまうような時代だけど、こういうリフォームもあるんですね。
障子の穴に桜型に切った紙を貼って繕うのもなんだか日本人的で粋だなぁーって思いませんか。

欠点は、あえて目立たせると欠点ではなくなる
むしろ長所になるというような。。。
ちょっとした真理。
ともかく スズメがいつまでも見られる世であって欲しいです。
極秘湯!岩間温泉
十数年前に『北海道無料の100秘湯(旭川在住:表正彦著)』という本を書店で見つけて温泉めぐりをしていたことがあります。
でも、運転経験も微妙なのでほとんど近場の比較的行きやすいところばかりでしたけどね。

『岩間温泉』は上士幌町の幌加温泉を過ぎたところにある橋のあたりから石狩岳・音更山登山口へ向かう林道を11キロほど走った場所にあります。
地図の上では、大雪山系の奥深くという感じで人の数より圧倒的にクマのほうが多そうな場所です。
その林道もタウシュベツへ向かう林道のように多くの通行車によっていかにも道の様相ではなく、うっそうとした草木が今来た道をすぐにでも塗りつぶしてしまいそうで、かすかに砂利道とわかる感じ。
砂利といっても敷きっぱなしのようで、スピードを出してカーブでも切ろうものなら砂利ごと地滑りを起こして路外に転落しそう。。。
クマに出会ってもUターンはちょっと難しいようなその道を走るとカーオーディオも悪路ゆえに聞くことが困難。ひたすらタイヤが砂利を食む音、砂利が車の下に当たる音、草木が車をこする音を聞くことに。。。
たかだか11キロといっても林道ではとても長く感じますよ。

かつてこの『岩間温泉』のあたりに造林飯場があり、キコリの人が浴槽を作って入浴していたというお話です。(『岩間』の名は昭和11年に源泉発見者の道職員である岩間さんの名前から付けられた)
とは言っても大自然の趣というよりも自然そのもの。4駆の車でもないと辛そうな道であることには変わりありません。
ようやく車のメーターが11キロ分動いた頃に『岩間300m』と書かれた古い大木が見つかる。
4駆の車やオフロードタイプのオートバイなら更に近くまで寄れますが、普通車はここから歩かなければなりません。
そう言うのも歩き始めてすぐに道は川によってさえぎられてているからです。
浅そうな川だけれども流れの急な音更川。糠平湖へ注ぎ込みアーチ橋梁のいくつかも下流でこの川を跨いでいます。
ちょうどいい具合に(あるいは意図的に)大木が川を横切って倒れていて橋になっている。
そこを恐々渡ると川で途切れていた道が再び現れた。
坂道を揚々歩いていくけれど道の脇にも小さな流れがあって奇妙な光景でした。
坂を越えきる頃になんだか硫黄の香りが。。。
もうもうとではないけれど湯煙を上げる大きな石組みの浴槽が見えてきた。
そこまでにもいくつか丸木橋があって川原は大きな石がゴロゴロ。
ようやく湯船にたどり着いて手を入れてみる。
『熱い』
でも入れないほどではない。
脱衣所はありません。
簡易的に流木で組んだようなものはありますが、骨組みだけでなにもかぶせていないために無いのも同然です。
『山奥だから誰も見てないよね。。。』
クマは見てるかも。。。

真っ白なお湯は、この辺りじゃ珍しいのかなぁ。
幌加温泉・鹿の谷さんの硫黄泉(露天風呂)でも透明だったから。
お湯自体は意外とやわらかい。
お湯の中から川べりを眺めていると川沿いのあちこちにも源泉があるようで湯気が上ってくるのが見えた。
贅沢な大自然に抱かれた秘湯『岩間温泉』
ちょっとひと風呂…という場所ではありませんけど。。。
でも帰りには大勢人が来てびっくりしました。
ひと足遅かったらせっかく来たのに入れないところです。
それなりに準備は必要です。
【注 意】
今回は、過去に訪れた際の写真と当時に基づくレポートです。
現在の状況ではないので、道のりの詳細は詳しく触れていません。
行かれる方は、現在の現地状況を十分ご確認のうえでお願いします。
現場および現場までの道はクマの生息域です。
無計画に入山すると林道の支線に迷い込む恐れもあります。
車のトラブルも考慮して、単独入山は控えるべきです。
現場に浴槽を形成する行為は国立公園法により禁止されています。軽率な行為は『岩間温泉』さえダメになることになります。
当然のごとくゴミの投棄、洗剤類の利用も控えてください。
そういうことを言う当人が軽率・軽装で申し訳ないですけど。。。
待ち続ける学舎
自分の通った学校が街にあるようなところなら良いけれど
郡部と呼ばれるようなところにあって、すでにどこかに統合になっていると、そうはいかないことが多いようです。
校舎が何らかの施設に転用されたりしていればいいけれど、すっかり取り壊されてしまうと当時を偲ぶものは見たこともない大げさな記念碑だけだったりして。。。
なんだか記憶を確かめる術がないのは寂しいものです。
ところが何の力がはたらいたのか閉校から40年近く経ち、管理されることもなく緑に埋もれているのにあの日のままの学校があります。
『上稲牛小学校』 足寄町

昭和20年ころから入植者が増加したこの付近の集落は、奥へ進むごとに山が近づき谷間の様相を深めていきます。
それほど奥へ行かないうちにカーラジオも電波のキャッチが悪くなってくる。。。
古い感じの建物がチラホラ見えてきて古い集落である様子は色濃くなっていく。
気がつくといくつかは既に廃屋と化しているようです。
それでも畑は休むことなく青々としている。ここまで耕作にくる人がいるんだなぁ。。。
国道から分岐する道のところに稲牛小学校というのがあって、このあたりの子たちも始めはそちらに通っていたそうです。
でも7キロもの道のりを毎日通学せねばならなかったことから住民が学校建設運動に乗り出し、住民が490日間の出役をもって、このブロック建て校舎が完成したそうです。
せっかく完成した学校も23年後には、また稲牛小へ統合ということになってしまいました。
閉校時の生徒は10人。まだそれだけの子たちがここで学んでいたのです。
道をどんどん奥へ進むと家の数はめっきり減ってきて空家ばかりが続いていくようになり、道も細いものに変わってきました。
『ホントにこのあたりに学校があるのかなぁ。。。』
不安がピークになってきた頃、麦畑脇のうっそうとした茂みの中に明るい赤の屋根が見えた。
『あっあそこだ』
少し塗装が剥げているようにも見えるけど思ったよりもずっとキレイな学校。
同じ足寄町の長野小学校みたいに学校らしくない感じもする。。。
入口上の校章が学校であることを隠すことなく示しています。

『閉校の日から40年近い校舎とは思えないね。。。』
割れたガラスもなく雑然とした藪がなければ、メンテナンスがちょっとおろそかかな。。。という感じです。
道かグラウンドかも分からなくなった藪をなんとか横切って入口に立つ。
入口は閉鎖されているでもなく普通に開いた。
登校児童を待つかのように、ドアは開くのが当たり前であるかのように。
小さな学校にはお似合いの狭い玄関口の脇に小窓があってその奥の部屋が職員室のようです。
中には月間行事予定を記入する黒板がありました。

『えーっ!』
驚いたことに閉校になった年、3月の予定が書き込まれたまま。
3月28日の欄には「糠平へお別れ遠足」という文字も。
小さい出来事だし、隣町だから当然といえば当然だけれど、ちょっと感動。
31日の「今日で統合併合」という文字に無念さに似たものが読み取れます。
ブロック建てということもありますが、ただ気力を失って朽ちていくのではなく、何かを待ち続けているから己を保ち続けているんだと、この学舎を見て思いました。

昭和23年創立 昭和46年3月閉校

仕方のないことが たくさん
学校がなくなるのは 大抵の場合「大人の都合」
子どもの都合でも学校の都合でもありません
仕方のないことはたくさんあるのだけれど
それ以上に 取り返しのつくこともいろいろあるようです
それは 学校が元に戻るということじゃなくて
心の帰る場所が元気でいるという奇跡が当たり前のようにあったから
とでも言っておきましょうか。。。
「おくりびと」になるので 数日の間、更新を休みます。
すぐに帰ってきますよ。。。すぐにね。
また「忘れ形見」を探しましょう。

ねこん


