十勝三股の場景

「十勝三股」には何もない。
造林の最盛期には1,500の人が暮らす集落であったそうですが、険しい黒石平を越えて到達したこの地の現在は、静か過ぎるほど平らな景色です。
造林に携わった人たちが去り、学校もなくなり、駅も国鉄士幌線が全線廃止になる以前の休線措置でそのまま廃駅になりました。
90年代頃までは軌道も駅跡も転車台跡もあったと聞きますが、全て撤去されて野花の平原。
でも 何もないのではなく、かつての郵便局跡や国鉄代替バス関連施設、そして三股山荘がある。

そして、あきらかに時代の異なる木造でボロボロの大きな小屋。
そこは、機関庫であったと聞いたことがあるけれど、国鉄車両を中へ入れるには小さすぎる…。
それに壁に営林署所管を示す看板が取り付けてある。
何となく分かったようで分からない…。
十勝三股まで延長された旧国鉄士幌線は、この地で採取された森林資源をは弾丸列車と呼ばれた汽車に乗せられ、ブランド品と言っても過言ではない三股木材を全国へと運びました。

その三股の貯木場から出ていたもうひとつの鉄道があったそうです。
それが「音更森林鉄道」、いわゆる「林鉄」。
狭軌道のため子ぶりな車両ですが、この三股から現在の岩間温泉のあるあたりまで延長されて、原木を運んでいたのだそうです。
その車両の機関庫が、この建物であったそうで確かに機関庫に間違いないらしい。
取り壊されなかったのは、所轄が違ったのか、除雪ステーション車庫に使ったか、代替バス関連で使用されたのか…
ともかく、三股が造林の街であったことを記す唯一の建物です。

※建物の老朽化により危険なため、現在は立入禁止の看板が立っています。
三股ポストーテム

十勝三又
国道に面した道沿い、建物の前にある不思議なオブジェ。
除雪等の時、建物に車両が当たらないようにする
目印なのかと思っていた。
どうやら後ろの建物は、元郵便局。
そしてこのオブジェの乗っている台は、丸い郵便ポストのものらしい。
三股駅や郵便局の廃止後も現役で活躍していたポストは、10年ほど前までここにあったらしいけど、今は撤去されたのだそうだ。
どこ行っちゃったんだろうね…
上目づかいで空を仰ぐ身代り。
駐車帯のその後

十勝三股手前の駐車帯。
春にはミズバショウが群生して優雅な眺めを見せてくれました。
ところが陰では、このような光景が雪解け跡に見られていた。

そこでCOCOA隊長率いる「かみしほろん.comゴミを拾い隊」は、泥沼に沈没、長靴に浸水の状況の中、環境美化してきました。
その後、あの場所はどうなったのだろう?

おーっ緑がまぶしい風景ですね。
周囲を見回してもゴミもなく環境は保たれているようです。
ん…?


しかし竹ぼうきとかは、一般ドライバーの捨てるものじゃないよね。。。
よその町の上士幌っぽい駅

上士幌町のシンボルでもある『気球』が一面に描かれた駅舎。
駅舎というけれど、これってどこかで見た形。。。
これは、元々貨車だったり、車掌車、緩急車で廃車になったものを改造して、駅舎として転用したわけ。「貨車駅」とも呼ばれる。
場所は、日高管内浦河町 日高本線荻伏駅。
片面ホーム1面1線の簡易委託駅で、1940年(昭和15年)から勤めていた駅員が、定年後に町の委託で切符を売っている窓口業務現役の駅なんです。
車両は台車、車輪といった土台部分を外して、荷台部分だけをホーム脇にポンと置いてあるその姿から、鉄道ファンの間では『ダルマ駅』とも呼ばれるようです。専門に集めた本なんかも出ているらしい。。。

北海道はこのタイプの簡易駅舎が日本一多いそうだ。全国で約50駅あるとされていますが、北海道内には、七割の40駅ほどあるそうで、この日高本線だけでも5駅になる。
時代を越えた古建築な駅舎も良いですが、こんな暮らしとともにある小さな駅もいいものだなぁ…と思いました。
旧国鉄士幌線が今も現役だったら、こういう駅舎が広い大地にポツンと置かれて例えば“清水谷ダルマ”なんて呼ばれていたのかもしれません。
※ここ浦河町荻伏は、北海道開拓を営んだ政治結社赤心社の本部があった地としても知られています。
ナイタイの硬い牛
十勝の田園風景を一大パノラマで望むことができる上士幌町ナイタイ高原牧場。
なだらかな平野が広がる風景は車で走るとのんびりしすぎる感もありますが、それゆえにこの高地の高原牧場から見下ろす風景はパッチワークのような広がりです。

そのナイタイ高原牧場レストハウスの背面、少し高い位置にモニュメントが見える。
あれはなんだろう?
…と長い石段を上がっていくと碑文に『家畜感謝の碑』とある。
なるほど、牧場だからなんだと思いますがそれだけではありません。
この碑の背面に『開基40年記念 昭和45年8月建立』と記されている。
開基とはなんだろう?獣魂碑では無い感じがします。

Web版上士幌町史にこういうくだりがあった。
母村当時士幌村では、1929年(昭和4年)から補助雌牛の導入を奨励し、当上士幌と中音更を放牧区域とした。翌年(昭和5年)波多腰円一ら10名が、上士幌畜牛組合をつくり、極東練乳株式会社から資金を借り牛10頭を導入した。牛を飼うのには種牛の導入が必要であった。畜牛組合では、奔走の結果、同年秋、取り敢えず老令種牛を導入し、1932年(昭和7年)には、道庁から種雄牛の配置を受けることに成功した。この種牛が優秀で上士幌の初期乳牛改良に貢献した。初め老令種牛導入のとき要した資金に対し、新しく発足した上士幌村役場から補助金が得られた。村農会の奨励と同志の勧誘によって村内各地に牛の導入が拡がっていった。勢多地区でも飯崎彰助ら3名が、1934年(昭和9年)2頭づつ補助牛を導入し、同地区酪農のはじまりとなった。当時は上士幌に集乳所がなく、上士幌駅から帯広へ汽車輸送のため、朝の一番列車5時30分発まで持ち込みで、それぞれ駄ぐら、馬車などで運搬し、特に冬の出荷には苦労した。
(中略)
上士幌が1931年(昭和6年)分村以来、1965年頃まで、約300頭前後であった町内の乳牛頭数は197171年(昭和46年)8月現在5,212頭に達し、年間搾乳量は1万2千トンとなった。酪農と根菜を農業の基幹作目として長期計画を進めて来た町の目標が成果を収めたものといえよう。あたかも此の年は開基40年に当り9月16日全町挙げて盛大な記念式典が行なわれたが、町は七つの記念事業の内の一つに乳牛5千頭突破を据えて、これからも、居辺地区無水地帯解消などにより堅実な経営で飼育頭数をふやし酪農経営安定化に邁進することを期したのであった。そして事績を記念して家畜感謝の碑を大規模草地の中に建立した。
…とこういう経緯に基づくものなのだそうです。
十勝の酪農のはじめは開拓の祖、依田勉三の導入によるものとされているそうです。
上士幌町開拓の祖、安村治高丸は、1917年(大正6年)に牛18頭を飼っていて、上士幌で記録されている畜産では最初となる。安村はのちに清水谷へ転住後、牛が道路横断するため木造の横断橋を架けており、木造のサイロをつくっていたから、まさに先駆者であったらしい。
でも、北海道の開拓の始めは、開墾とそれに続く畑作及び稲作であり、畜産業、特に乳牛の育成は、冬場雪に閉ざされる農民の収入安定対策として奨励されたと聞いたことがある。
時を経て畜産は専業となるほど拡大し、この大規模育成牧場で牛の群れが草を食みながら移動する姿が壮観です。
この牛達に感謝して建立されたのが、この碑なのです。

改めてこの碑を見ると
何だか牛の顔に見えてきますね。
見れば見るほど。。。
どう見ても牛


